石川啄木

               三ッ木健
 

    《東海歌》
 
  東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる
 
  だれしもが、一度はどこかで聞いたことのある「東海歌」だが、啄木はこの歌を、
 白砂青松の浜辺で詠んだわけではない。
 止宿先の金田一京助の下宿赤心館で、明治四十一年六月二十三日の深夜、突如
 歌興にのり、徹夜も交えて三日間連続して詠みあげた二百四十六首中の一首だ。
 ちなみに「東海歌」は、六月二十四日、啄木の好む百合の香の漂うなか、徹夜
 明けの午前十一時ごろに詠じられている。
 書かれてあったノートの題名は「暇ナ時」、その最終ページに、大書されてあった
 ものだ。
 「暇ナ時」に詠じられた歌が、現在、あまたの教科書に掲載され、多くの青少年に
 膾炙されている。
 当時啄木は二十二歳、栄光と富をつかもうと、呻吟しながら小説を書くが、一向に
 売れる気配はなく、挫折感だけが虚しく若き啄木の胸を押しつぶしていた。
 その年四月、函館に妻子を残して切羽つまった思いで単身東京に乗り込み、かねて
 より兄と慕う金田一の下宿先に転がり込んだ啄木は、「菊池君」(未完)、
「病院の窓」、「天鵞絨」など自然主義的色合いの濃い小説を書くが、金田一や、
 歌会で知己を得た森鴎外の出版社へのはたらきかけにもかかわらず、まったく売れ
 ない。
 失意のなかで、啄木は歌作に逃れる。
 自ら玩具と蔑視する歌を、啄木は自虐の意味をこめて詠じ続けた。 小説では原稿
 用紙に向かって身構えていた啄木も、歌では自身の内面を素直に吐露している。
 啄木にとって、歌に対する心構えは小説よりも気楽だった。
 力を抜いた姿勢で取り組んだ歌であるからこそ、名歌が数多く生まれる。
 「東海歌」も、そのひとつだ。
 
   《渋民、盛岡で》
 
  かにかくに渋民村は恋しかり
 おもひでの山
 おもひでの川
 
  石川啄木、本名石川一は、その幼少時より神童の誉れ高い少年だった。 明治十九
 年二月二十日、岩手県南岩手郡日戸村の曹洞宗日照山常光寺住職、石川一禎の長男
 として生まれた啄木は、父一禎が妻帯を認められない僧籍にあったため、戸籍上母
 工藤カツの私生として届けられる。 長姉サダ、次姉トラに次ぐ第三子だった。
 翌年、一禎が北岩手郡渋民村にある宝徳寺に転住したため、一家は渋民に移り住む。
 渋民尋常小学校、ならびに盛岡市立尋常高等小学校では常に最優秀の成績を修め、
 
 県立盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)へ、百二十八名中十番の成績で入学する。
 盛岡中学では、ひとつ上の学年に野村長一(野村胡堂)、そしてふたつ上の学年に
 終生慕ってやまない金田一京助、及川古志郎(のちに海軍大臣となり、日独伊三国
 同盟を結んだ)ら俊才達が学び、十年後、詩人宮澤賢治も同校に入学する。
 まず金田一に「明星」の愛読を勧められ、野村長一に文章の添削を指導されている
 うちに、文学への興味が青年啄木の胸にわきおこる。
 また二年のとき、のちに妻となる堀合節子に、恋慕の情を抱く。
 三年になると、啄木は友人を募って短歌グループ白羊会を結成し、白蘋の号で「岩
 手日報」に、「白羊会詠歌」として歌を発表した。
 こうして文学と恋愛に耽溺していく啄木は、次第に学業が疎かになり、五年生の秋、
 一学期末試験における不正行為により、譴責処分を受けて盛岡中学を退学になるが、
 奇しくも同じ月に発行された「明星」に、白蘋の号で

 血に染めし
 歌をわが世のなごりにて
 さすらいここに野にさけぶ秋

 と詠じたものが掲載され、ここに啄木は若干十六歳にして、中央歌壇にデビューす
 ることになる。
 盛岡中学中退後、啄木は前後を考えずに文学で立身しようと上京するが果たせず、
 加えて病をえてしまう。
 失意のうちに渋民へ、翌年二月、迎えの父とともに帰郷するが、上京中に与謝野
 鉄幹、晶子と知遇を得る機会に恵まれ、強い薫陶を受けた。
 故郷渋民で療養中の啄木は、ワグナーの研究に没頭し、「ワグネルの思想」と題す
 る評論を、「岩手日報」に七回にわたって掲載する。
 また詩作にも励み、「明星」、「太陽」、「時代思潮」、「帝国文学」などに次々
 と詩を発表して、新進の詩人として活躍するが、一方では、父一禎が明治三十七年、
 不正に報徳寺の財産を処分したとして住職罷免の処置を受け、石川一家は渋民を離
 れて盛岡に転居し、以後、石川家は流浪の生活を続けることになる。
 明治三十八年五月、高等小学校時代の友人の金銭的援助により、啄木は処女詩集
「あこがれ」を、上田敏の序詩、与謝野鉄幹の跋文とともに小田島書房より刊行する。
「あこがれ」は一部で高く評価されたが、薄田泣菫、蒲原有明ら浪漫派の模倣が指摘
 され、思ったほど売れなかった。
 同じ月に啄木は、かねてから恋慕していた堀合節子と結婚する。
 だが、仙台の土井晩翠宅を訪ねたりして不可解な行動をとった啄木は、友人たちが
 用意した披露宴に欠席し、故郷で多くの友人の信頼を失ってしまう。
 翌三十九年三月、啄木は父一禎の宝徳寺復帰を願って渋民へ戻り、渋民尋常高等
 小学校の代用教員となる。
 六月、農繁休暇を利用して上京したおりに触れた、島崎藤村や夏目漱石の新刊小説
 に影響を受けて自らも小説を書くことを決意し、翌月から「雲は天才である」の
 執筆にとりかかるが中途で挫折し、十二月に長女京子が誕生すると、一家の窮乏は
 激しくなった。
 
  《函館・札幌・小樽・釧路》
 
  明治四十年一月、父一禎が、住職再任の抗争に疲れて青森の野辺地へ出奔すると、
 渋民での石川家の生活が貧困の極に達し、啄木は北海道での新生活を計画して妹の
 光子とともに函館に渡り、代用教員時代の啄木に寄稿の依頼をしたことのある松岡
 蕗堂宅に身を寄せて、雑誌「紅苜蓿」の編集に加わる。
 そこで、その後の石川家が長期にわたって恩情を受ける、宮崎郁雨と出会うことに
 なる。
 郁雨は金田一とならび、啄木のよき理解者であり、盲目的協力者だった。とくに
 金銭感覚が絶無の啄木にとって、郁雨の存在は神にも等しいものだった。
 郁雨は啄木に仕事の世話をすると同時に、家族を函館に呼び寄せる費用までも都合
 する。
 そのころ啄木は、函館の大森海岸で生まれて初めて海水浴をするが、これがのちの
「東海歌」の下地となった。
 妻子と共に暮らし、生活が安定するかに見えた矢先、函館は大火に襲われ、
「紅苜蓿」も解散して仕事も危うくなったため、一家は札幌へ移る。
 その後啄木は、小樽、釧路と渡り歩いて新聞記者生活を送るが、妻子は小樽に残し
 たままで、送金を一切しないという破綻した生活を送り、赴任した各地では女性関係
 の乱れもあった。
 
   《背水の上京》
 釧路新聞では健筆をふるっていた啄木だが、上司の編集方針に次第に不満を抱き、
 明治四十一年三月、釧路新聞社を辞し、妻子を函館の宮崎郁雨に託して単身上京し、
 金田一の赤心館に入る。
 だが小説で身を立てることを焦るあまりに構想がまとまらず、啄木は、遊蕩に明け
 暮れる毎日を送っていた。
 明治四十二年十二月、部数の伸悩みから「明星」が廃刊となり、後継誌「スバル」
 の創刊に啄木は深く関与するが、平野万里との編集方針の食い違いから「スバル」
 とは距離をおく。
 翌四十三年三月より、東京朝日新聞校正係の職を得て、啄木はようやく東京での
 生活基盤の体裁を整えたが、函館の郁雨のもとに預けたままの妻子を呼び寄せる
 ことなく、浅草の私娼窟で相変わらずの遊蕩三昧を続ける。
 このころの啄木の心情を知る手がかりのひとつに、ローマ字で書かれた日記がある。
 そのなかで啄木は洒脱した文章を書き、自分を客観視した日記文学をなしている。
  それは一心に綴られた小説よりも、はるかに私小説的な面白さがあり、自分を哀れ
  みながら詠じ続けた歌作と、表裏となっている。
 ハムレットの「生きるべきか死ぬべきか」を、朝風呂に浸かりながら、「風呂から
 出るべきか、出ないで止まるか」と、風呂の出入りに自身の生死も重ね合わせ、
「会社に出社すべきか、せざるべきか」と迷った挙げ句、どうせ生きていてもと、
 金田一から借りた剃刀を胸にあててみたりする。
 もちろん啄木は金田一がとめに入ることを計算に入れての行動だが、おかげで
「とんび」を質に入れるはめとなり、金田一は啄木とともにてんぷら屋へ行き、
 酒を酌み交わす。
 さっきまで死を考えていた人間が、ほんの数時間後には高笑いをして酒を飲む。
 啄木のわがままで気ままな性格を、端的に表している記述だ。
 また、自分が小説を書くことが出来ないことも、日記のなかでは素直に認めている。
 「そしてすぐ、ペンをとった。三十分が過ぎた。予は 予が到底 小説を書けぬ
 ことを また まじめに考えねばならなかった。予の未来に なんの希望もない
 ことを 考えねばならなかった」
 日本文学研究家ドナルド・キーンは、ローマ字日記の終わりに近い五月十三日の
 記述に着目し、
 「あてはまらぬ、無用なカギ!それだ!どこへもっていっても 予のうまくあては
 まるアナが見つからない!」
 と記述しているのは正しい自己分析だと指摘し、あてはまらなかったからこそ啄木
 は時代を超越した歌人として、現在も輝き続けていると解釈している。
 
   《こころがわり》

 函館に残された家族は、啄木の朝日新聞勤務が決まると、早く上京したいと催促し
 た。だが都会で半独身生活を送っていた啄木は、なかなか首を縦に振らない。
 思い余った家族は啄木の許諾のないまま、宮崎郁雨に伴われ、明治四十二年六月に
 上京して、本郷弓町の理髪店「喜之床」の二階に間借りする。
 こうして平穏が訪れたかに見えた石川家だが、妻節子が、啄木の母カツとの確執や、
 啄木のいまだに続く生活態度に耐えかねて、愛娘京子を連れて盛岡の実家へ帰って
 しまう。
 金田一や高等小学校時代の恩師のとりなしで、三週間後に節子は帰宅するが、以後
 啄木の作風には、生活色が色濃く反映されるようになる。
 暮には父一禎も野辺地より上京し、光子を除いた一家が東京にそろった。
    《晩年》
 明治四十三年九月、朝日新聞に朝日歌壇が新設されると啄木が選者となり、
 加えて歌集、「一握の砂」の出版契約が東雲堂との間で交わされた。
 当初、「仕事の後」という題名で別の出版社に持ち込み、断られた経緯のある
 啄木の第一歌集は、「一握の砂」と改題され、ようやく日の目を見るが、
 その喜びは生まれたばかりの長男真一の死と重なり、稿料はそのまま葬儀代に
 あてられて、歌集には弔歌八首が追加される。
 
 おそ秋の空気を
 三尺四方ばかり
 吸いてわが兒の死にゆきしかな

「一握の砂」は歌壇で高く評価され、啄木は一流歌人の仲間入りを果たす。
 翌明治四十四年一月、啄木は「スバル」同人で、大逆事件の特別弁護人である
 平出修を訪ね、前年大逆事件を起こした幸徳秋水が、担当弁護人へ送った陳述書を
 借り、筆写をする。
 大逆事件は社会主義思想に関心を抱いていた啄木の心をゆさぶったのだ。
 また当時知り合った土岐哀果と、新雑誌創刊を協議するが、直後に啄木は腹膜炎で
 倒れ、入院してしまう。
 三月に退院したが、啄木の病は肺結核に移行する。次第に衰弱し、新雑誌の刊行も
 断念せざるを得なくなる。
 七月、妻節子が肺尖カタルと診断されると、家主に立ち退きを要求され、八月、
 小石川区久堅町へ、宮崎郁雨の協力を仰いで転居するが、九月、父一禎が窮乏に
 耐えかねて家出する。同月、妻節子と郁雨の関係を訝った啄木は、恩人宮崎郁雨と
 絶縁してしまう。
 明くる明治四十五年、啄木の母カツが三月に結核で死去、啄木自身も重篤な病状が
 続いていた。
 啄木の臨終に際しては、金田一京助の「啄木の臨終」が、当時の石川家の様子を
 含めて詳細に描写している。
 明治四十五年は、三月三十一日が桜の満開だった。一家で花見の準備をしていると、
 読売新聞第一面「読売抄」の、石川啄木危篤の記事が目にとまり、花見どころでは
 ないと金田一は石川家に駆け付ける。
 そこには、痩せさらばえた啄木が、病臥していた。
 「米も買う金が無い」といわれた金田一は、家に駆け戻って十円札を鷲掴みにし、
 石川家に行くと、黙って啄木の前に金を差し出した。
 だが何の応答もない。
 「いくら親しい間柄でも剥き出しはまずかったか」と顔をあげると、啄木は目を
 閉じて金田一を拝み、節子は畳に落涙している。
 金田一自身も込み上げるものがあり、しばらく三人は無言で泣いた。 「こう長く
 困っていると、人の情けが身に染みて」
 啄木が喘ぎながらいう。
 「持参した金は自著の処女出版の原稿料だ」と、金田一が啄木に無理をした金で
 ないことを説明すると、啄木は自らのことのように喜んだという。
 二週間後の早暁、金田一は迎えの車屋におこされた。おっとり刀で枕元へ駆け付け
 ると、昏々としていた啄木は、擦れ声で金田一を迎えた。
 そこへ若山牧水も駆け付けてきた。 友に囲まれて安心した啄木は、とつとつと
 新たに計画している雑誌のことなどを語りだし、はた目には瞬時小康を保つかに
 見えた。
 「この分なら」と金田一は席をはずし、国学院での講義に出かけるが、直後に病状
 は一変し、金田一は啄木の臨終に立ち合えない不覚をとる。
 その後長い間、金田一は病臥した啄木の夢を見たという。
 夢のなかの啄木の唇はかすかに動いている。
 「あっ、まだ生きている」
 金田一が啄木のそばに躙り寄り、ことばを聞き取ろうとすると目が覚める。
 長い間見続けた啄木の夢も、十年、二十年と歳月の流れとともに次第に見なくなり、
 金田一は、それが寂しくて仕方がないと結んでいる。
 啄木はこうして多数の友人に恵まれて、わがままを貫き通したその一生を終えた。
 その一途とも思えるわがままを容認した周囲が、歌人石川啄木を育てたともいえる。
 没後刊行された第二歌集の「悲しき玩具」は、絶賛をもって迎えられ、皮肉にも啄木は、
 死と引きかえに名声を得る結末となった。
 啄木凶年二十六歳、果たしてその一生は、短かったのだろうか。

 古新聞!
 おやここにおれの歌の事を賞めて
 書いてあり
 二三行なれど

                月刊「心泉」収載